Sergey Rakhmaninov【1873年4月1日-1943年3月28日】
ラフマニノフは1873年、ロシアで生まれた。彼の家系はもともと没落貴族であったが、それなりに裕福であった。
彼は、はじめはペテルブルク音楽院に入学したが、3年後、フランツ・リストに学んだピアニストで従兄弟のジローティにモスクワ音楽院を勧められ、そちらに移った。
当時モスクワ音楽院にはチャイコフスキーも教師をしており、ここでの生活が後の彼のロマン派的な音楽に影響を与えた。
また、この時スクリャービンと同級生であった。
その後彼はいとこのナターシャ・サーチナと結婚した。
彼は指揮者やピアニストとして活躍したが、作曲家としてはなかなかうまくいかず、ついには神経症になってしまった。
この病を精神科医ニコライ・ダーリの心理療法で治療し、有名なピアノ協奏曲2番を作曲した。これが大成功をおさめたことで作曲家としての地位も築いた。その後は1918年にアメリカに亡命し、ピアニスト、作曲家として活躍した。
□セルゲイ・ラフマニノフ 略歴
1873年 ロシアに生まれる
1878年 母親からピアノの手ほどきを受ける
1882年 ペテルブルグ音楽院に入学
1885年 モスクワ音楽院に入学
1892年 モスクワ音楽院を卒業
1902年 ナターシャ・サーチナと結婚
1904年 ボリショイ劇場の指揮者に就任
1906年 グリンカ賞受賞、イタリア・ドイツに移住
1909年 モスクワに移住
1817年 ストックホルムに亡命
1918年 ニューヨークに移住、ボストン交響楽団の指揮者に就任
1943年 米国市民権を得る、死去
□ラフマニノフのピアノ作品
ピアノ協奏曲第2番(Piano Concerto No.2)【1900~01年作曲】
ラフマニノフのピアノ協奏曲の中でも美しい旋律で人気の高い作品。
ラフマニノフは1897年、交響曲第1番の失敗によってノイローゼ状態になるほどまで落ち込んでしまった。
極度のスランプに陥った彼は作曲家としての活動もほとんど出来なくなり、作曲家としては再起不能かとも思われた。
そんな彼を友人たちは心配し、1900年、モスクワの精神科医、ニコライ・ダール博士を紹介する。
博士は4ヶ月間に渡ってラフマニノフに催眠治療を施した。
この催眠治療は功を奏し、1900年の夏ごろからピアノ協奏曲第2番の作曲に取り掛かったのである。そして、1901年春に完成し、ラフマニノフ自身のピアノによる初演が行われた。これが初演からの大成功となり、ラフマニノフはダール博士にこの作品を捧げた。
ラフマニノフはこのスランプ脱出後、結婚、ボリショイ劇場の指揮者就任などさまざまな栄誉を得てその地位を確立することとなった。
また、現在、第二楽章の美しい旋律がメディアにおいて様々な場面で使用されている。
第3番(Piano Concerto No.3)【1907~09年作曲】
ラフマニノフのピアノ協奏曲の中で最もスケールの大きく、ダイナミックな作品。
アカデミー賞受賞作品「シャイン」でも「世界で最も難しく、最も美しい曲」と評されている。
ラフマニノフは1907年からこの作品の構想に入っていたが、1909年にアメリカから招かれることとなり、アメリカでの初演を目的に完成された。実際1909年アメリカで初演され、大好評を博した。また、このアメリカツアーの最後にカーネギーホールでマーラー指揮、ラフマニノフのピアノという今から考えると信じられないキャストでの演奏も行われた。
前奏曲(Preludes)【1892~1917年作曲】
ラフマニノフのピアノ曲の中でも最も有名なものの一つであり、1892年の「幻想的小曲集」の中の前奏曲嬰ハ短調が人気を博し、その後1901年から作曲を開始し1903年に発表した「10の前奏曲」1910年に発表された「13の前奏曲」を作曲した結果、ショパンの「24の前奏曲」と同様の性格である24の調性を持った24の前奏曲集となったのである。
この点でショパンの「24の前奏曲」を意識して作曲されたのは明らかである。