チャイコフスキー

Peter Tchaikovsky【1840年5月7日-1893年11月6日】

Tschaikovskiチャイコフスキーは、面白い経歴の持ち主である。

彼の父親は政府高官であり、自身も法律家になるために学び、法務省に勤めていた。

しかし、21歳でロシア音楽院に入学し、23歳で法務省を辞職、1865年に卒業して、音楽家として歩み始めたのは1866年、なんと彼が26歳の時であった。

彼の音楽家としての最初の仕事は、モスクワ音楽院での教師で、はじめはとても貧しかったが、音楽院の校長であった、ニコライ・ルビンシテインの暖かい助けによって救われた。

しかし、この頃から、生涯にわたって悩まされる鬱が始まる。そしてそれは結局妻との離婚にもつながるのだった。

彼の特殊さは女性関係にも表れている。内気で女性恐怖症のチャイコフスキーは37歳で結婚したが、アントニーナ・ミリュコーヴァには「愛と肉体関係はないと考えてほしい」と断ってからのプロポーズであった。そして、ハネムーンの後80日(実際に暮らしたのは30日間)で結婚生活は終わりを告げた。妻もまた不安定な精神の持ち主であり、離婚後も手紙などで彼を苦しめた。

この結婚生活と同じ頃、チャイコフスキーはフォン・メック夫人というパトロンを見つけた。

彼女とはその後14年間にわたって付き合いは続いた。この関係の面白いところは、2 人が現実に会わなかったところにある。多額の援助をしながらメック夫人は決してチャイコフスキーに会おうとはしなかった。例えば、彼女の近くに彼が住んでいた際は、偶然出会うことを避けるため、外出時間を手紙で知らせているという徹底ぶりであった。

□ピョートル・チャイコフスキー 略歴

1840年 ロシアで生まれる
1848年 学校でピアノを学び始める
1854年 母死去
1859年 法律学校卒業
1862年 アントン・ルビンシテインの音楽学校入学
1866年 モスクワ音楽院教師就任
1876年 フォン・メック夫人と出会う
1877年 アントニーナ・ミリュイコーヴァと結婚し、離婚する
1878年 モスクワ音楽院を辞職
1890年 フォン・メック夫人との別離
1893年 チフスで死去

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□チャイコフスキーのピアノ作品

ピアノ協奏曲 (Piano Concerto)【1番:1874~75年、2番:1879~80年、3番:1893年作曲】

チャイコフスキーは生涯の中で、3曲のピアノ協奏曲を作曲した。しかし、現在チャイコフスキーのピアノ協奏曲というと1番という印象しかない。なぜかというと、2番は評価が低く演奏されないこと、3番は第1楽章しか完成しなかったからである。

そこで1番の解説だけすると、1874年に作曲されたこの曲は1875年にアメリカで初演された。初演はこの曲を最初から高く評価し、献呈されたハンス=フォン=ビューローの指揮であった。

またこの曲には有名なエピソードがある。実はもともとはビューローではなく、モスクワ音楽院の院長ニコライ=ルービンシュテインに献呈するつもりでチャイコフスキーは作曲したが、完成品を見せたところニコライにひどくけなされてしまい、怒ったチャイコフスキーがビューローに献呈先を変えたという。結局、後にニコライが謝罪し、事なきを得たそうだ。

□ピアノ以外の作品

ヴァイオリン協奏曲 (Violin Concerto)【1878年作曲】

1878年に作曲されたチャイコフスキーの唯一のヴァイオリン協奏曲。

チャイコフスキーはその前年から、パトロンであったフォン・メック夫人に年金を贈られるようになり、心身ともに良好な中多くの作品を作曲した。そのような中で作曲されたこの協奏曲は、実は長い間その独創性ゆえに批評家からは酷評され、演奏の難易度故に演奏を断られるなど多くの苦難に遭った。そのような中で理解ある演奏者達の手により現在ではヴァイオリン協奏曲の代表作品となっている。

白鳥の湖 (Swan Lake)【1875~76年作曲】

ビゼーのカルメンを見て触発されたチャイコフスキーが1975年にモスクワ・ボリショイ劇場の依頼で作曲した作品。

ドイツの作家ムゼウスによる童話「奪われたべール」から内容が作られた。

結婚相手を翌日の舞踏会で選ばなければいけないある王子が嫌がって白鳥の住む湖へと狩に行く。そこで、王子が見たのは月の光に照らされた白鳥が人間へと変わる場面であった。王子はその中でも最も美しいオデット姫に心を奪われ、翌日の舞踏会に招待する。しかし、悪魔の企てにより王子はオデット姫の偽者に求婚してしまいそれを嘆いて、白鳥の住む湖に身を投げる、というものであった。

チャイコフスキーは意気込んで作曲したが、初演が散々でその後10年以上バレエ音楽から遠ざかった。

実際その失敗はチャイコフスキーによるものではなく、振付師やバレエ団員のレベルの低さが原因と言われている。チャイコフスキーの死後、再評価された。

眠れる森の美女 (The Sleeping Beauty)【1888~89年作曲】

この作品はチャイコフスキーの3大バレエ音楽の一つで最も規模の大きな作品である。

サンクトペテルブルクの帝室劇場総裁イワン・フセヴォロシスキーの依頼で1889年に完成した。

「白鳥の湖」が失敗に終わった後のチャイコフスキーの落胆は激しく、結局それから13年の歳月が経ってのバレエ音楽作曲となったのである。

バレエの内容は、魔女の呪いで100年間眠りについていたオーロラ姫を王子が起こし、最後に結ばれるというもので、初演から大好評で「白鳥の湖」の雪辱を果たした。

交響曲 第6番 「悲愴」 (Symphony No.6 “Pathetique”)【1893年作曲】

この交響曲はチャイコフスキーの生涯最後の交響曲であると同時に、生涯最後の作品でもある。そして、最高傑作との呼び声も高い。

交響曲第5番を完成させた後、「最後を飾るにふさわしい傑作を作りたい。」と自ら言って、1893年に9ヶ月かけて制作された。

この作品は雄大でドラマティックである。チャイコフスキー自ら「悲愴」と名づけ、初演の指揮も行った。しかし、初演後わずか9日で最後の傑作を残しチャイコフスキーは亡くなったのだった。

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