チッカリングはアメリカで最も古く、近代のピアノを作り上げた歴史あるピアノメーカーである。
◆チッカリングの歴史
チッカリングの創業者ジョナス・チッカリングは1797年ニューハンプシャーで生まれた。
彼はキャビネットメーカー(家具屋)で働いていたが、1817年、ピアノの知識があるわけでもないのに、とある偶然からイギリスのアメリア王女のピアノの修理を任せられることとなったと言われている。
このピアノの修理を通して彼はピアノの魅力にとりつかれた。
そこで、彼はボストンに出てジョン・オスボンというピアノメーカーに弟子入りし、その会社にいた同僚とともに1823年ボストンでピアノメーカーを設立した。
これがチッカリングの歴史の始まりである。
その同僚がイギリスに帰ってからはチッカリングが一人で会社を切り盛りすることとなった。
しかし、チッカリングが伝統を守り続けるタイプの職人ではなく理論家であったため、その後もピアノを改良し続けその名声は徐々にボストン外にも広まる事となった。
ジョナスはさらにジョン・マッケイという人物と組み、会社をさらに大きくした。
そして43歳の時にはついにアメリカ最大のピアノメーカーへと成長しました。
残念ながら、その後、チッカリングの会社では火災が起こり、その失意の中彼は亡くなってしまうが、残された職人たちはジョナスの残した「ピアノ作りは職業ではなく芸術の範疇に属するものである。」という言葉を守り、素晴らしいピアノを作り続けた。
特に次男は1867年のパリ大博覧会において最優秀賞を得て、世界中にチッカリングの名をとどろかせ、ナポレオンに謁見するという名誉も得た。
1909年以降チッカリングはエオリアン・アメリカン・カンパニーに吸収されて消えてしまったが、チッカリングがピアノに貢献した事実が消えることはないだろう。
◆チッカリングの発明
チッカリングの最も大きな功績は鉄とピアノを上手く合わせることだった。つまり鉄骨の利用である。
これによって音量はさらに大きくなり、以降現代に至るまでピアノに大きな影響を与えた。
◆リスト、グリーグによる評価
パリにいた次男フランクは最高のピアニストであるリストに自分たちのピアノをどうしても弾いて欲しいと考えた。
しかし当時リストはイタリアのローマにおり、何度手紙を出しても来てくれる素振りもなかった。
そこで、フランクはピアノをリストのところに運ぶことを決意した。パリからローマへの道の途中にはアルプス山脈があり、普通に考えるとありえないことだが、なんとアルプス山脈をピアノを持って横断してしまったのである。
リストはこのピアノを弾き、「最高だ!ピアノがこんなに素晴らしい性能を持っているとは夢にも思わなかった!」と言ったと言われている。
そして感激した彼は、自身のワイマールの家に運ばせたということ。
ちなみに後日リストの家に来たグリーグもこのピアノを弾き、「壮麗な音」と手紙で褒めている。
◆グールドも使用していた
グールドが最後に使用したのがヤマハというのは有名な話である。それにその前にはスタインウェイを弾いていたこともまたよく知られているだろう。
しかし、グールドがチッカリングを弾いていたことはそれほど知られていないのではないだろうか。
『グレン・グールドのピアノ』によるとグールドは自分の求めるピアノがなかなか見つからず、スタインウェイの前はチッカリングで演奏会をしていたそうである。