Ludwig van Beethoven【1770年12月16日頃-1827年3月26日】
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという名前は、特にクラシック音楽に興味が無い人でも馴染みがある。
そしてその人物像に関しては、気難しく癇癪もちで、年中お金に困っていて難聴に負けなかった偉大な作曲家という考えが一般的であろう。
しかしここには多くの間違いがある。まず、ベートーヴェンが髪をボサボサにして、着る物に無頓着だった奇人であったという逸話があるが、普段のベートーヴェンはそうではなかったらしい。
親交の深かったブロイニング家をはじめとする貴族達と付き合うときは、気品のある衣装を着てとても注意深く振舞っていたという記録が残っている。
ただ、貴族社会に馴染み、受け入れられていくほどに、彼の心の中では逆に貴族の生活がいやらしく見えてきて、彼らの興味の対象である服装などが馬鹿らしく見えたのも事実であろう。
また、ベートーヴェンは非常に先見の目を持った音楽家であった。かの有名な「交響曲第9番合唱付き」であるが、当時交響曲に合唱を入れるというのは異例のことであり、一般人からも演奏者からも理解されなかった。事実、多くの歌手たちが初演の前、ベートーヴェンに「あまりに器楽的すぎて歌うことが出来ない」と文句を言っていた。しかし初演は大成功となり、多くの批判した者はベートーヴェンに謝罪の言葉を送ったという。
□ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 略歴
1770年 ドイツのボンで生まれる
1776年 父からピアノを学び始める
1778年 ケルンでピアニストデビュー
1785年 宮廷オルガニストとなる
1787年 ウィーンへ旅行し、モーツァルトを訪ねる
1792年 ハイドンに弟子入り
1801年 難聴が始まる、サリエリに師事
1819年 難聴がひどくなる
1827年 死去
□ベートーヴェンのピアノ作品
ピアノソナタ第8番 悲愴 (Piano Sonata No.8 “Pathetique”)【1797~98年作曲】
このソナタは1798年頃作曲され、リフノフスキー公爵に献呈された。出版された当初から、「悲愴的大ソナタ」の名がついていたと言われている。
第1楽章はゆっくりとした序奏から始まり、その後、ベートーヴェン自身が名づけた「悲愴」を感じさせるアレグロの主題に移る。
第2楽章は穏やかで、清楚な印象、メロディの美しさでは数あるピアノソナタの中でも1位2位を争う。
第3楽章は軽やかなテンポの作品。しかし、軽やかさの中にも悲しみを感じさせる作品である。
ピアノソナタ 第14番 「月光」(Piano Sonata No.14 “Moonlight”)【1801年作曲】
この作品は1801年に作曲され、ジュリエッタ・グィチャルディに捧げられた。彼女はベートーヴェンにとってピアノの弟子であり、良き理解者の伯爵令嬢であった。この作品は彼女に恋をしたベートーヴェンが彼女のために作曲したといわれている。残念ながら、彼女との恋は実らず、後に「ベートーヴェンの不滅の恋人」の謎において候補の一人とされた。
第1楽章は詩人レールシュタープが「月光を浴びて湖上の波に揺れる小舟」と形容した幻想的で有名な曲。第2楽章は間奏曲、第3楽章はそれまでと一転してベートーヴェンらしい激情を綴った作品である。
ベートーヴェン自身はこの作品に「幻想曲風ソナタ」としか名づけなかったが、先に挙げたレールシュタープの言葉によって「月光ソナタ」として有名である。
ピアノソナタ 第17番 「テンペスト」(Piano Sonata No.17 “Tempest”)【1802年作曲】
これ以降のピアノソナタは一般に「中期・後期ソナタ」と呼ばれ、ベートーヴェンの創作活動も円熟期をむかえる。
本作は1801年から1802年にかけて作曲された。これはベートーヴェンのソナタの中でも「月光」「熱情」「ワルトシュタイン」「悲愴」などと肩を並べるほど有名。
また、このソナタはそれまでのソナタとは異なる実験的でドラマティックな性格と楽想の大胆さで晩年の作品の奔りとなったとされている。
ちなみに「テンペスト」の由来であるが、弟子のシントラーがこの曲を理解するためにどうしたらよいかを尋ねた際、「シェークスピアの『テンペスト』を読め」とベートーヴェンが言ったことから名づけられたとされている。
ピアノソナタ 第21番 「ワルトシュタイン」(Piano Sonata No.21 “Waldstein”)【1803~04年作曲】
このソナタの題にもなっているワルトシュタインとは、ベートーヴェンがこの作品を献呈したワルトシュタイン伯爵である。彼はベートーヴェンがボンで暮らしていた頃から彼を援助し続け、貴族とベートーヴェンのパイプ役となってくれた恩人である。
この作品を作曲した1803年から1804年はベートーヴェンが絶望的な苦しみを乗り越えた時期で、この作品にもモーツァルトやハイドンの時代とは明らかに異なる後期ベートーヴェン個性が感じられる。
第1楽章は和音の連打が印象的なソナタ形式。
第2楽章は短く第3楽章の序章的であるとしてこの作品を2楽章構成と言われることもある。
第3楽章はロンドだが、また、ワルトシュタイン伯爵が当時ベートーヴェンにプレゼントしたエラール社製のピアノは鍵盤が軽く浅かったため、現代のピアノでの演奏は技術的に難しい作品である。
ピアノソナタ 第23番 「熱情」(Piano Sonata No.23 “Appassionata”)【1804~1805年作曲】
1804年から1806年頃に書かれたとされているベートーヴェンの中期ソナタの傑作。
このソナタも「月光」同様ベートーヴェンが名づけたわけではないが、その名前通り情熱的な曲である。聴き始めると第1楽章から第3楽章まで通して聴かずにはいられない。
ピアノ協奏曲 第5番 「皇帝」(Piano Concerto No.5 “Emperor”)【1808~09年作曲】
この作品は1809年、ウィーンにナポレオンが侵攻している最中にウィーンで作曲された最後のピアノ協奏曲であり、ピアノ協奏曲の中で最も規模の大きい作品となった。
この作品の雄大さは第3番交響曲と並ぶと言われており、作品の由来ははっきりとしていないが、この作品の初演を聴いた人々が、「ピアノ協奏曲の皇帝のようだ」と賛辞を送ったことから、こう呼ばれるようになった、という説もある。
この作品は右手と左手が異なるリズムを刻むという特徴を持つ。
また、その後のピアノ協奏曲では見られることも多いが、第2楽章と第3楽章の間をほとんどとらないというのは音楽史上初めてであった。
ピアノ三重奏曲 第7番 「大公」(Piano Trios No.7 “Archduke”)【1811年作曲】
1811年に作曲されたピアノ3重奏曲の中でも最も有名な作品である。
第1楽章はソナタ形式、第2楽章はスケルツォ、第3楽章は変奏曲、第4楽章はロンドという構成である。
この作品が「大公」と呼ばれる由来は、この作品がベートーヴェンの弟子であり、パトロンであり、良き理解者でもあったルドルフ大公に捧げられたことである。さらにルドルフ大公には「ピアノ協奏曲5番」や「ハンマークラヴィーア」も捧げ、彼が大僧正に就任する際には「荘厳ミサ曲」を捧げるなどしており、ここから2人の間の尊敬と友愛の感情を読み取ることが出来るだろう。
ヴァイオリンソナタ (Violin Sonata)
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタは前期と後期で大きく異なっている。
前期はモーツァルトなどの流れを汲んだヴァイオリン付ピアノソナタといった印象の作品であるが、後期ソナタはヴァイオリンとピアノの協奏曲のようである。
そして、後期ソナタの完成形が「クロイツェルソナタ」といっても良いだろう。
第5番 「春」
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの中でも有名な作品の一つであり、ベートーヴェンの作品の中でも最も明るい楽曲の一つと言えるだろう。同じヴァイオリンソナタの中でも後期に書かれたクロイツェルソナタの強い意志を感じさせる曲調とは異なり、モーツァルトやハイドンを髣髴とさせる優雅な曲調である。この作品の書かれた1801年というのは、ベートーヴェンの人生の中でも明るい時期のひとつで、ベートーヴェンがジュリエッタ・グィチャルディという女性に恋をしていた時期である。「月光ソナタ」も同時期に書かれ、彼女に捧げられた。
第9番 「クロイツェル」
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)この作品は1803年に作曲された。
この1年前にベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くほどに心身ともに絶望的な状況になっていた。しかし、それを乗り越えた彼の意志の強さがまさにこの作品といっても良いのではないだろうか。
ベートーヴェン以前のヴァイオリンソナタがヴァイオリン付ピアノソナタというイメージだったのに対しベートーヴェンはこの作品でそのイメージを粉々に壊し、まるでヴァイオリンとピアノの協奏曲のような作品に仕上げた。
また、この作品の「クロイツェル」の由来はこの作品が献呈された当時のヴァイオリニスト、ルドルフ・クロイツェルから来ている。ちなみに文豪トルストイはこの作品に触発され「クロイツェルソナタ」という小説を書いた。
チェロソナタ (Cello Sonata)【1796~1815年作曲】
ベートーヴェンは1796年から1815年までに5曲チェロソナタを作曲した。
その中でそれまでのピアノが中心のチェロ付ソナタから、チェロの領域を増やしピアノとチェロの協奏曲のように進化させた。
チェロという楽器に新しい世界を生み出し、チェロ奏者にとっても重要なレパートリーとなった。チェロの可能性を広げたとして、チェロ奏者にとってバッハの「無伴奏チェロ組曲」が旧約聖書に例えられるのに対し、新約聖書と呼ばれるのも頷ける。
□ベートーヴェンのピアノ以外の作品
交響曲 第3番 「英雄」 (Symphony No.3 “Eroica”)【1804年作曲】
この作品は1804年に作曲された。
この交響曲は当時ベートーヴェンが平民出身で自由と平等のために戦っていたナポレオン・ボナパルトに共感し心酔していたため、彼に捧げるためにこの作品を書いたと言われている。
そのため、最初は「ボナパルト」と題を自ら書いていたのだが、ナポレオンが皇帝の位についたというニュースを聞くと、「あの男もただの人間に成り下がっていしまったのか」と怒り、タイトルを破り捨て、「ある英雄の思い出のために」と書き直したと言われている。
この作品は演奏時間が1時間近くもあり、モーツァルトやハイドンの「交響曲は楽しみのための音楽」とは大きく異なった新しい交響曲の世界を作り出した。
交響曲 第4番 (Symphony No.4)【1807年作曲】
1807年に書かれた作品である。
第1楽章の冒頭、不気味で暗い始まりに緊張するが、その後一転して明るい曲調となり、最後の第4楽章の速い旋律で清清しく終わる。
シューマンが「2人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシアの乙女」とたとえたことでも有名。この巨人はもちろん「英雄」と「運命」である。
交響曲 第5番 「運命」 (Symphony No.5)【1807~08年作曲】
最初の4音だけでクラッシックに詳しくない人にも分かる有名な曲。この最初の4音に対し、ベートーヴェンが「運命が扉をたたいているところだ」と言ったことから日本では「運命」という名前で有名だが、海外ではこの名前は使われていない。1808年、「田園」と同時期に作曲された。第一楽章は言うまでも無く有名でだが、第2楽章や第4楽章も勇壮でスケールの大きな作品である。
交響曲 第6番 「田園」(Symphony No.6 “Pastoral”)【1807~08年作曲】
この交響曲第6番は1808年に作曲されたもので、第5番「運命」と同じ年であるが、2つを比べてみると作曲期間は圧倒的に第5番が長く、重厚な第5番に比べると第6番は穏やかで暖かい作品である。
第1楽章から弦楽器の緩やかな流れの中でフルートやオーボエ、クラリネットの歌声が牧歌的である。第4楽章は激しい音も示されるが、第5楽章では再び明るい景色に包まれる。
この作品はベートーヴェンの自然描写と言っても間違いなく、タイトルに自ら「田園交響曲」とつけたことも後のロマン派や印象派の標題音楽に大きな影響を与えたのは間違いない。
ちなみに第5楽章まである交響曲はベートーヴェンの作曲した中では唯一のものである。
交響曲 第7番 (Symphony No.7)【1811~12年作曲】
1812年、第6番から3年の時を経て作曲された。この曲はリズムに特徴があり、リストやワーグナーが絶賛したことでも知られる。ちなみにリストはピアノ用に編曲をして、それに合わせてダンスをしたとも伝えられている。
ナポレオン戦争やベートーヴェン自身の失恋なども3年間の間にあり、それを乗り越えた明るい曲となっている。
交響曲 第9番 「合唱」(Symphony No.9 “Choral”)【1822~24年作曲】
ベートーヴェンの作品中最も知られた存在であり、最も愛され、世界で最も有名な交響曲である。
この曲は言葉で言い表すことすら難しい、あまりに壮大な音楽と言うより宇宙のような存在である。ベートーヴェンを「楽聖」たらしめた最高傑作である。
この作品は構想から30年以上かけ、ようやく1824年に完成した。シラーの「歓喜に寄す」という詩に音楽をつけたことも有名だし、日本では「喜びの歌」として、なぜか年末に歌われることでも有名である。
この曲で有名なエピソードと言えば、1824年の完成時、ウィーンでの初演では演奏後の万雷の拍手が浴びせられたと言う。しかし、その時既に耳を患っていたベートーヴェンは気がつかず、出演歌手の一人に振り向かされ、初めて気がついたという。このエピソードなども作品を聴きながら思うと何度聴いても感動してしまう。
プロメテウスの創造物(Die Geschopfe des Prometheus)【1800~01年作曲】
この作品は生涯で2曲のバレエ音楽を作曲したベートーヴェンが1800年から1801年にかけて書いた作品である。もう一曲は「騎士のバレエ」と言う作品である。
序曲を含め8曲で構成されるこの作品だが、残念ながら現在序曲以外が演奏される機会はほとんどない。
この作品の中の主題が交響曲第3番やエロイカ変奏曲に流用されているのも特筆される。
ヴァイオリン協奏曲 (Violin Concerto)【1806年作曲】
ベートーヴェンにとって唯一のヴァイオリン協奏曲は1806年、交響曲第4番やピアノ協奏曲第4番と同時期に書かれており、これらにはベートーヴェンの明るい性格をよくあらわれている。
またこの当時ベートーヴェンが、かつての自分のピアノの生徒でその後ダイム伯爵と結婚しさらに未亡人となったヨゼフィーネ・ダイムという女性と世間の目をはばかる恋愛関係にあったことが明らかになっている。この時期の作品の明るさはこの恋愛と関係しているのかもしれない。
コリオラン序曲 (Overture “Coriolan”)【1807年作曲】
この作品は友人であったハインリヒ・ヨーゼフ・フォン・コリンの戯曲にベートーヴェンが曲をつけたもので1807年に作曲された。この戯曲は全5幕で主人公コリオランがローマで政争に破れローマを出て、再び兵を率いてローマを攻める。そして最後は謀殺される悲劇である。しかし、ベートーヴェンの序曲がこの戯曲に使われたという記録はなく、ベートーヴェンがこの作品を見て筆をとったということである。内容は非常に重厚で非常に悲劇的な内容になっている。
エグモント序曲 (Overture “Egmont”)【1809~10年作曲】
1810年にベートーヴェンはウィーンの宮廷劇場から「エグモント」のための付随音楽の依頼を受けた。この「エグモント」はゲーテの戯曲で、かねてからゲーテを尊敬していたベートーヴェンは快諾した。
現在では序曲部分だけが取り上げられることがほとんどであるが、この序曲でもベートーヴェンは革新的な部分をみせている。それは、この序曲が劇の内容を意識した作品である事で、リストらロマン派の標題つき音楽に影響を与えたとも考えられている。
また、後にゲーテとベートーヴェンを出会わせることとなったのもこの作品といってよいだろう。ゲーテとベートーヴェンは年齢でいうとゲーテのほうが21歳年上で63歳であったが、「私はこれまで、これほどの集中力をもつ、精神的で内面的な芸術家を見たことがない。」と手紙で述べたという。
アテネの廃墟 (Die Ruinen von Athen)【1811~12年作曲】
この作品は1811年に作曲された劇の付随音楽である。
ハンガリーのドイツ劇場のこけら落としのために作曲を依頼され、初演も同劇場で行われた。序曲を含め9曲で構成されているが、現在は序曲と第5曲の「トルコ行進曲」のみが演奏されることが多い。
また、この「トルコ行進曲」はピアノ編曲されそれも多く演奏されている。
荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス) (Missa solemnis)【1823年作曲】
1818年に作曲が始められ1823年に完成したベートーヴェンの晩年の宗教曲の傑作。
ベートーヴェン自らも最高傑作と言ったということである。ベートーヴェンの友人であり弟子であり、よき理解者でもあったルドルフ大公の大司教就任を祝って書き始められたが、結局間に合わなかった。
音楽的にはミサ曲の常識どおり、5部作となっているが、実際にミサで使用するようには作られておらず、ワーグナーはこの曲を「交響曲」と表現した。それに加えベートーヴェンのポリフォニー音楽の傑作という一面も持っており、ヘンデルの影響も受けているとされる。