ショスタコーヴィチ

Dmitrii Shostakovich【1906年9月25日-1975年8月9日】

Shostakovichショスタコーヴィチは1906年、ロシアで生まれた。

彼は他の多くの作曲家同様、早熟の天才であったが、ロシアで革命が起こったことで不遇な生活を余儀なくされた。

特にスターリン支配下のソ連にあって、彼は何度も共産党から目をつけられ、一時は食事の時間すらスターリンによって決められていたとも言われている。

スターリンが死んでからようやく彼は自由となり、多くの作品を作った。

ショスタコーヴィチには多くの謎が残されており、現在も不明な点は多い。

その1つは、チャンスがあったにもかかわらず、結局亡命しなかった点である。

スターリン時代の彼は前述の通り、共産党に目をつけられていた。彼らに迎合する作品を作ることを余儀なくされ、5度のスターリン賞を受賞したが、自らの希望とする音楽をかけなかったのは事実である。戦後「ショスタコーヴィチの証言」という本も出版されたが、これは捏造されたものであることも分かっており、多くは依然、謎のままである。

□ドミトリイ・ショスタコーヴィチ 略歴

1906年 ロシアで生まれる
1915年 ピアノを学び始める
1919年 ペテルブルク音楽院入学
1953年 スターリン死去
1975年 モスクワで死去
1979年 「ショスタコーヴィチの証言」が出版される

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□ショスタコーヴィチのピアノ以外の作品

交響曲 第5番(Symphony No.5)【1937年作曲】

ショスタコーヴィチはスターリン時代のソビエトで、圧政に耐えながら交響曲を15曲も作曲したことで知られている。4楽章構成の伝統的な構成でそれまでの前衛的な作品に較べて分かりやすかったため人気を博し、現在においても最も演奏される機会が多い。

この第5番に関してショスタコーヴィチは初演当時「フィナーレでは各楽章の悲劇的な緊迫を解決し、明るい人生観、生きる喜びへと導くものである」と言ったが、後の「ショスタコーヴィチの証言」において、「あそこにどんな歓喜があるというのか、あれは強制された歓喜なのだ」と語った。

実際、この作品の前の年、リハーサルまで行っていた第4番の発表を共産党の圧迫によって断念するなど苦しい立場におかれていた彼にとって、この作品は共産党から反政府的と見られる危険を取り除く考えと音楽家としての考えに挟まれた彼の苦肉の策だったとの見方もある。