Modest Mussorgsky【1839年3月21日-1881年3月28日】
ムソルグスキーは1839年、裕福な地主の家に生まれた。
母親からピアノを学び、10歳でエリートを養成するためのペーターシューレに入学した。
その後も近衛師団士官候補生になろうとするが、同時に音楽への情熱も持ち続けた。
ところが1861年、農奴解放令で実家の土地の半分が失われた頃から不幸が始まる。
まず、彼は下級の公務員として働く傍ら、音楽活動をせざるを得なくなり、彼の作品は多くが未完となってしまった。
さらに作品発表の場も少なく、アルコール依存症になってしまった。1880年代になると公務員も解雇され、失意の中42歳でこの世をさったのである。
□モデスト・ムソルグスキー 略歴
1839年 ロシアで生まれる
1845年 母親からピアノを学ぶ
1849年 エリート養成機関であったペーターシューレに入る
1852年 近衛師団士官候補生教練所に入る
1861年 農奴解放令で荘園を失う
1866年 ペテルブルクで下級官吏となる
1880年 公務員を免職される
1881年 死去
□ムソルグスキーのピアノ作品
展覧会の絵(Pictures at an Exhibition)【1873年作曲】
ムソルグスキーの親友で建築家・画家であったヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・ガルトマンの遺作展をもとに1873年作曲された。
遺作展をモチーフにしているため、プロムナードと絵画作品が交互に出てくる。プロムナードとは、絵画を見て回るムソルグスキーを表している。
この曲はもともとはピアノ作品であり、有名とは言いがたい作品だったが、セルゲイ・クーセヴィツキがロシア音楽をパリに紹介するにあたり、モーリス・ラヴェルにオーケストラ作品への編曲を依頼した。
そして1922年に発表され、一躍有名になった。現在では、ピアノ版よりもオーケストラ版のほうが有名である。
伸びやかなプロムナードと、個性的な絵画部分が融合した作品で、最後の「キエフの大門」はガルトマンが力を入れたデザインコンテストのための作品をモチーフにしており、黄金のキエフの大門にふさわしい雄大な曲となっている。